ミニマガつみき

あれこれ

第4号  2007.03.22:「つみきの会のあゆみ」

<あれこれ>
今日のテーマ「つみきの会のあゆみ」

毎月第四週は、特にテーマを決めずに、毎回いろんなことを取り上げていきます。

今日から2,3回は、入会しただけではなかなか知り得ない(?)つみきの会の実情を紹介したいと思います。

つみきの会誕生のきっかけは、2000年3月に私が明石市で開いたセミナーにあります。

当時私は地元のしがない短大の法学講師でしたが、3年ほど前から、仕事そっちのけで、自分の娘のために自宅でABAセラピーに取り組み、ロヴァース博士の「ザ・ミーブック」の熱心な信奉者になっていました。

この年、子どもが幼稚園に入り、家庭療育も一段落する見通しになりました。
私は以前から、ロヴァース博士の早期集中介入のことを日本の他の親御さんに広めたいと思っていたのですが(だってすごいニュースじゃないですか。私は元もと新聞記者志望だったので、すごいニュースはみんなに伝えたいのです)、この期を逃すと、そのままずるずると、勇気がでないままに終わりそうでした。

そんなときは、何も考えずに一歩前に足を踏み出せばいいのです。私はある日蛮勇をふるって、架空の団体名をでっち上げ、明石市の公共施設を予約し、次いでそれらしいチラシをこしらえました。

さて問題は人集めです。
私が一番来て欲しかったのは、娘が2才の時に一時期お世話になった、明石市保健センターの母親教室に通っている親御さんたちでした。

娘が2才の時、私たちはたまたま書店でキャサリン・モーリス「わが子よ、声を聞かせて」に出会って、ABAを知り、入ったばかりの親子教室をやめました。そのとき教室には他の20人ばかりの親御さんがいましたが、どなたにもABAのことを教えて差し上げる機会がありませんでした。そのことがずっと気にかかっていたのです(こういうおせっかいは新興宗教の信者によく見られる特徴です)。

そこで、私は(なんせ短大の教師は暇ですから)、平日の火曜日、親子教室が終わる時間を見計らって保健センターの玄関に立ち、中から出てきたそれらしい親子連れに、チラシを手渡していきました。受け取る側は、さぞ怪しい男性だ、と思ったでしょう。

しかしこの時の熱意が伝わったのか、当日のセミナーには思いのほかたくさん(確か20人ばかり)の人が参加してくれました。
私はその人たちに、 ABA早期介入でアメリカではこんなにすごい成果が出ている、 わが家でもやってみて、子どもはこんなに伸びた、 これから、ロヴァース博士の「ミーブック」を一章ずつ訳していって、皆さんに配るので、皆さんもそれを頼りにやってみてはどうか、 という話をしました。

その時はそれで終わったのですが、3ヶ月後の6月に、今度はその時の参加者に呼びかけて「行動療法を広める親と教師の会」の設立会合を開いたところ、これも2,30人の方が集まってくれました。「つみきの会」はその時に、私がこの会につけた「愛称」です。ネーミングの由来は特になくて、何となくかわいらしいからつけただけです。それがいつの間にか、正式名称になってしまい、もとの堅苦しい名前はどこかに行ってしまいました。

さて、その後私は約束通り、少しずつ「ミーブック」を訳しては、会員の皆さんにコピーをお送りしていました。これはとてもやりがいのある、楽しい作業でした。私は「ミーブック」が大好きで、それをたくさんの人に読んで欲しかったからです。
確かそれから1年以上かけて、2章ほどを残して「ミーブック」をほぼ完訳することができました。古い会員さんのお手元には、まだそのコピーがおありだと思います。

話は前後しますが、2000年6月の設立会合のあと、8月に2回目の公開セミナーを開きました。その時に入会された方の中に、パソコンにやたら詳しい方がいらっしゃって、その方がつみきの会のホームページとこの「つみきメーリングリスト」を作って下さったのです。私はパソコンはからっきしだめなので、つみきの会が全国に広がったのは、全くもって、この方のおかげです。

その方は本業が医療関係なので、ハンドルネームを「ドックさん」と言いますが、今でもHPとこのメーリングリストの管理を引き受けて下さっています(感謝!)。

それからは毎年100人単位で会員が増えていき、ご覧の通り、今では全国のあちこちに支部ができるまでになりました。各支部の設立・運営にはそれぞれ無償で汗を流して下さった方々がいますが、ここでは紹介を割愛します。

私は、ずっと短大講師とこの会の代表の2足のわらじを履いていたのですが、会が大きくなるにつれ、それが難しくなってきました。というか、あまりにつみきの会の仕事がおもしろかったので、本業に手が着かなくなってきたのです。

ちょうど勤め先の短大も学生数が減り、先行きが怪しくなってきたので、思い切って、短大をやめて、この仕事に専念することにしました(危険な選択ですね)。そのために、2004年度、2005年度の2年間、神戸にある兵庫教育大学の夜間大学院に入学して、臨床心理学を勉強しました。

話は逸れますが、この2年間、臨床心理学を勉強して、臨床心理のテスト類はほとんど占いに近いと感じました。

例えば「バウムテスト」というのがあって、これは患者さんに一本の木を描いてもらい、そこからその人の心理状態を推測するのですが、右側が大きかったら内向性とか、左が大きかったら外向性とか、ほとんど「うそでしょ?」という世界です。そのバウムテスト講習会が、参加費何千、何万円を取って大まじめに開催されているのですから、本当にどうかしています。

理論の方も、例えば精神分析のユングの理論などはあんまり荒唐無稽なので、講義の時に「ユンギアン(ユング学者)」の女の先生に、「先生、それを本当に信じていらっしゃるんですか?」と聞いたほどです。

兵庫教育大の大学院は、その、私から見れば荒唐無稽な(しかし魅力のある)精神分析学を信じる先生たちと、こちらはまっとうな科学(だが理論は無味乾燥)である行動分析学を信奉する先生たちとが、けんかもせずに仲良く同居している奇妙な世界でした。

話を戻して、「ミーブック」の翻訳配布のことですが、これはロヴァース博士の同意を取って行なっていたわけではないので、厳密には違法行為です。会が小さいうちはよかったですが、大きくなるにつれて、翻訳を配っていると言うことが外部にも知られるようになり、とうとう日本行動分析学会の理事から、非公式に警告をもらうまでに至りました。

2001 年か2002年頃のことだったと思うのですが、ちょうどニューヨークでロヴァース博士のカンファレンスが開かれる、というニュースを聞いたので、会員有志にカンパしてもらって、一躍ニューヨークに乗り込むことにしました。アメリカに行ったのはこれが初めてです。

私は英語を読むのは何とかできるのですが、ヒアリングとスピーチはまるで駄目です。そのときも、せっかく行ったのにロヴァース博士の講演はほとんど聴き取れませんでした。別室で行なわれた治療デモは大いに参考になりましたが。

さて、私はわざわざ会の皆さんにお金を出してもらったので、手ぶらで帰るわけにはいきません。なんとかこの機会にロヴァース博士本人に直接アタックをかけ、「ミーブック」の翻訳出版に同意を得たい、と思っていました。

そのためには、昼休みにロヴァース博士に声をかけるしかありません。私はドキドキしながら、会場で、昼休みが来るのを待っていました。

昼休みになりました!ロヴァース博士は会の主催者やお弟子さんたちと一緒に、控え室へ向かう廊下をゆっくりと歩いていきます。声をかけるなら今です。私はバクバク言っている心臓を抑えながら、勇気を出して、後ろから「Dr.Lovaas!」と声をかけました。

そこからは、夢中で、自分が日本の親の会の代表であること、ミーブックを翻訳して会員たちに読んでもらっていること、できればミーブックを日本で翻訳出版したいと思っていること、を伝えました。

どこまで伝わったか分からないのですが、ロヴァース博士は、「そうか、そうか」と上機嫌で、控え室まで私を連れて行ってくれました。
控え室で、私はさらに話を続けたところ、ロヴァース博士は、「それじゃ、契約しよう。ミーブックはちょうど今、改訂版を準備している。訳すならそれを訳して欲しい。翻訳権料はいくらいくらいただくよ。日本に帰ったら、手紙をくれたまえ」とおっしゃって下さいました。
私は願いが叶って、天に昇る心地でした。博士は最後に大きながっしりした手で、握手をして下さいました。その手のぬくもりは、今でも覚えています。

さて、それではどうして私が「ミーブック」の翻訳を出版していないか、と言いますと、帰国後、ロヴァース博士のおっしゃるとおり、さっそく手紙を出したところ、しばらくして返事が返ってきました。
それには、「実は日本ではJ大学のDr.Nに、ミーブックの翻訳を認める約束をしている。だからDr.Nと話をしてくれないか。幸いミーブック改訂版は大部なので、君も一部分担してもらう余地は十分にあると思う」と書いてありました。

私は大層がっかりしました。ロヴァース博士は、多分私が日本から来た、という部分を聞き逃して、中国かどこかから来たと思っていらしたのでしょう。

それでも私は一応、N先生に手紙を書きました。しかし帰ってきたのは、案の定、やんわりと協力を断るお返事でした。(その後、N先生が準備されているはずの改訂版の翻訳は、なぜか未だに出版されていません)

それからもしばらくはミーブックの配布を続けていたのですが、このままではつみきの会はどこまで行っても日陰の身です。これはつみきの会の会員にとっても、日本の早期集中ABAの普及のためにもよくありません。

そこで理事の皆さん(その頃には確か理事会もありました)とも相談して、2003年(だったかな?)の12月をもって、とうとう(泣く泣く)ミーブックの配布を中止することに決めました。ですから、いま皆さんが翻訳をお読みになりたいと思っても、お配りすることはできないのです。

その直後に、ミーブックの代わりとして作ったのが、いま皆さんにお配りしている「つみきBOOK」です。「ミーブック」がモデルになっていますが、著作権侵害といわれない程度にはオリジナリティを備えていると思っています。 「つみきBOOK」の完成、そして2005年のNPO法人化によって、ようやくつみきの会は安定して発展を遂げる基盤を得ました。そして現在に至ります。

またまた長い話になりました。来月は現在のつみきの会の話をしますね。

藤坂